「仕事」とは読んで字の如く「人に仕える事」だと私は考えていますが、玄米屋たいぞうはいったいどのような哲学を持ってして人様にお仕えしているのか?
今回はそれを書いてみたいと思います。
先に述べたように、仕事とは人に仕えることであり、その本分は「人様に喜んでいただくこと」でありましょう。
ですが、「旨い!美味しい!また食べたい!」と、人が快楽のままに求めるような食を提供することばかりが本当に人のためになる仕事だと考えているのであれば、私は以前に経営していた焼肉屋を辞めたりはしていません。
私が焼肉屋を経営していた時には、多くの人達に「旨い旨い」と喜んで貰えたものですし、さらに喜ばれるような旨い肉やアルコールを提供し続けることで、私の懐事情は今よりも遙かに潤っていたものです。
しかし、そうであったにも関らず私は焼肉屋を辞め、玄米屋の道を歩み続けています。
その理由は以前、玄米屋たいぞう便り第8号「たいぞうの過去のお話」やたいぞうの想い21「なぜ焼肉屋から玄米屋へ?」にも書いたことがありますが、今の私は確固たる自信と己の哲学に基づき、日々の仕事に勤しんでいるのです。
玄米屋としての仕事をしていく中で、
「お客様に玄米屋の価値をいかにして伝えることができるか?」
「 玄米屋が提供するサービスを多くの方々に納得していただくために、たいぞうはどう在るべきか?」
私はそうした点を常に意識していますが、玄米屋たいぞうがお客様に提供している価値とは一体何なのか?
単刀直入に申しますと、それはズバリ「人の健康」です。
玄米屋たいぞうは人の長期的な健康を創り上げるために役立つサービスを提供している店なのです。
ただ、その価値を伝えることが、とにもかくにも難しい。
「健康」とは本来は自らで創り上げるものです。
それは「肉体」であっても、「心」であっても、「己の環境」であっても同じこと。
いずれも長期的な健康であれば、ことさら自分の「健康でありたい」という意思と行動が必要となるものです。
しかし、こと「食」という分野においては、「他者から与えられる楽」によりかかることで、自分のその時々ばかりの健康を求めている方々があまりに多いように思えてなりません。
健康でありたいという意思はありながらも、自分自身の主体的な行動に依るのではなく、多くの方々が自分でも知らず知らずに「他の存在への依存」、「楽(ラク)」の方へと流されてしまっているのが現実の有り様です。
(何かというとサプリメントや薬などに頼ることが一つの例として挙げられます)
ただ、依存が「悪いことだ」と断言しているわけではなく、人という存在が他者への依存、他者から与えられる「楽」を望むのは自然な成り行きではあります。
それはなぜか?
・・・ここからが哲学です。
人という存在は人の「肉体」という器に縛られています。
人の意識はその人の肉体があるからこそ存在しているわけなのですが、その意識は肉体に縛られているがゆえに、じつは肉体からの解放をも望んでいるのです。
・・・一体どういうことでしょうか?
人は肉体を持つが故に、その意識は「苦」を感じてしまいます。
(「苦」とは肉体があるからこそ感じる「暑い」「寒い」「痛い」などの苦痛や、精神的ストレス、つまり他の存在からの圧力を感じることで生じる恐怖といった感情的な苦痛などが例として挙げられます)
ですが、その意識は己の肉体の存在を感じずに済んだ際に、その「苦」から逃れることが出来るのです。
(肉体の存在を感じずに済むためには、他の存在に依存することで自分の肉体の負荷を減らすことや、脳内麻薬の発生により意識の感覚を麻痺させることなどが挙げられます)
つまり、人の意識は自分の肉体の縛りから何らかの手段をもって逃れることができた際に初めて、「苦」を逃れ「楽(ラク)」を感じることが出来るというわけです。
それが「楽(ラク)を求め続ける人の意識は、人の肉体という縛りからの解放をも求め続けている」という所以であります。
しかし、ここで問題にしなければならないことは、肉体の「苦」から逃れるために、他への依存ばかりを求め続けることは、それが「今の人の肉体」をないがしろにすることに他ならないということです。
なぜなら、他への依存ばかりを求め続けるようであれば、その自分の肉体は自分の意識とは無関係にその能力を貶めていってしまうからなのです。
(この事実はホメオスタシスという自然の摂理を知ることで、ご納得いただけることと思います)
(他への依存を続けることで肉体の能力を貶めている実際の例として、筋力の低下、生殖能力の低下、自律神経系や内分泌系、免疫系などの維持能力の低下などが考えられます)
そういった事実を認識した上で、 人にとっての「苦」とはなにか? 人にとっての「楽」とはなんなのか?
それらの本質への認識をも深めていきます。
すると、「苦」も「楽」も結局はどちらも「生」であることに気付くことができます。
「苦」も「楽」も「人の生」においては表裏一体のものなのです。
私達は今、自らの「生」のために「楽」を追い求めているつもりが、実はそれが同時に人にとって「苦」への道のりでもあるということを認識しなければなりません。
「生を楽しむ」、「人生を楽しむ」ということの本質は、「楽を楽しみ、苦をも楽しむ」というところにあるのです。
人という存在は「苦」を感じることができるからこそ「楽」を楽しむことができるのであり、「苦楽」があってこそ「人生」は楽しいのです。
人の肉体の縛りからの解放ばかりを望むのではなく(ラクや依存ばかりを求め続けるのではなく)、人の肉体の縛り(苦)があるからこそ楽しめる行為を人として営み続ける。
(それはある意味、不自由を楽しむと言い換えても良いでしょう)
肉体の縛りからただ逃れようとするのではなく、不自由の根源である人の肉体を維持することをも楽しむことが、私達が今感じている人としての幸せを、未来へと繋いでいくために大事なことだと私は確信しています。
その未来とは自分の未来であり、子々孫々達の未来でもあることは言うまでもありません。
人の今の肉体を維持するために役立つ食品と、それを楽しむための術(すべ)を広く伝えていくことこそが、私達がこれからも人としての幸せを感じ続けるために大いに役立つことでありましょう。
私は人の真の健康を創り上げるためのお役に立つべく、これからも玄米屋たいぞうの「仕事」をもって人に仕えていきたいと思っています。
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