私達が生涯にわたり食や人生を楽しみたいと願うのであれば、「えいよう」を考えることは極めて重要なことです。
それは誰もが認識しているであろう、当たり前の様なことではあるでしょう。
ただ、今なぜ「えいよう」と平仮名で表記したのか?
その理由をこれから説明していきたいと思います。
「栄養」とは、人が健全な生命活動を営むために必要な物質を指すわけですが、ところでこの「栄養」という言葉、一体いつ頃から使われ始めたのか、皆さんはご存知でしょうか?
栄養という言葉の歴史は実はとても浅く、わずか100年ほど前、1918年頃に当時の栄養学者である佐伯矩(さいきただす)氏の提言により、その言葉が一般に使われるようになったそうです。
それ以前は「営養」や「滋養」という表記が主に使用されていたそうですが、当時の日本国の富国強兵論による発展の助長を促したいという意識もあり、「栄える」という意味の漢字をあてはめることが推奨されたというわけです。
「栄える」という言葉には健康を増進する意味合いがあるということで、営養から栄養への表記が一般化されるようになったそうですが、100年前ならいざ知らず、今の社会の中でこれ以上栄えることが、本当の意味で人の健康を増進することに繋がるとは私にはとても考えられません。
これまでたくさんの人達が、やみくもなまでに自分達の栄華を求め続けてきたことで、今の社会環境は物質的にはまさしく非常なまでに栄えることに成功しました。
しかし、その過ぎた栄華が今、あちこちで歪みをきたし続けています。
その歪みは人の健康のみならず、社会環境や人が生み出す現象など、様々なところでみられ続けているのです。
にも関わらず、私達が未だに栄えることばかりを求め続けるようであれば、それ相応の様々な厳しい変化が待ち受けることとなるのは否定できません。
(私達にとってどのような変化が待ち受けることとなるのか、それはまた別の機会にでも書きたいと思います)
物質的に満たされた現代社会に生きる私達にとって、本当に必要なこととは今以上に栄え続けることなのでしょうか?
私はそうは思いません。
今の私達に本当に必要なことは「営み続けること」です。
自分のキリの無い欲望に流されて生きるのではなく、その時々に得ることの出来る「人としての幸せ」を噛み締めながら、人としての人生を営んでいく。
そのための智恵こそが、今に本当に求められていることなのではないかと考えています。
現代の私達に必要なものは「栄養」ではなく「営養」、つまり人生を営み続けるための養分であり、より良く人生を営み続けるための「智恵という名の肥やし」なのではないかと思えてなりません。
言葉の力、言霊というものには不思議な力があるものです。
やみくもに栄養を求めるのではなく、自らの人生をしっかりと営むための指針とすべく、今こそ「栄養」から「営養」への表記に戻すべき時がきたのではないかと私は考えています。















