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より良い「食」の世界

 

 

過去記事玄米屋たいぞうの想い58(越前市のコウノトリ「えっちゃん」)でも取り上げたことがありますが、

福井県鯖江市のお隣の町、越前市白山地区では

「コウノトリが舞い降りる里山づくり」を合言葉に、

 

『コウノトリを呼び戻す農法部会』『水辺と生き物を守る農家と市民の会』などといった市民グループが環境調和型農業の推進環境保全活動に非常に熱心に取り組んでいます。

 

 

その活動は地元新聞社である福井新聞社の大きなバックアップもあって、昨年みごとコウノトリが一定期間の定住を果たすことができるまでの環境を創造するに到りました。

 

くわしくは福井新聞社ホームページのコウノトリ復活プロジェクトをご覧になってみてください → こちら

 

 

地元ならびに県外の親子達を対象にした無農薬無化学肥料での農作業体験なども大好評だそうで、農作業を通じてドジョウやカエル、フナやメダカといった様々な生き物にふれあい、親子そろって歓声を上げるといった姿には、地域住民の方々や関係各者みんなが、生き物と共生する古里づくりの将来像を見出していることでしょう。

 

 

そんな「コウノトリを呼び戻す農法」に取り組んでいる方々を心から応援している私ですが、どうしても懸念を抱いてしまうことが一つあります。

 

 

それは『自然に「生」を与えることによって、人に「楽」をも与えることは相当に難しい』ということです。

 

 

誤解を恐れずに言うならば、現時点の社会の観念からはそれは無理なことだとも言い切れるかもしれません。

 

 

もっと簡単にいうと、生き物との共生を目指しながらも、人の口により美味しく感じて貰えるような米づくりをも目指すことは難しいということです。

 

 

「自然を育む行為」を、自然をより搾取し続ける「経済」の土俵で競争させることは相当に大変なことなのです。

 

 

しかし・・しかしながら・・、そうした苦労が消費者の中で正当に評価され得るような社会を皆で目指すことこそが、文明が元で生じる、ありとあらゆる社会問題の解決につながっていく・・・・

 

私はそう考えています。

 

 

皆さんとそういったところを共有できたら素晴らしい・・・そう想っています。

 

 

 

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前回の話はこちらから

 

 

玄米屋を始めてから、人からよく言われるのが

 

『玄米が体に良いのは分かってるんですけどねぇ・・。』

 

という言葉です。

 

 

「けどねぇ・・・」ということは、その後に続く言葉があるのでしょうが、要は「好きではない」、「食べたいと思わない」などといったところでしょうか。

 

またはその人の家族の中に、玄米が好きではない方が居られるのかもしれません。

 

 

人間、好き嫌いがあるのは当然のことであり、自分が食べたいと思う食べ物を食べることは「健康」であるために大事なことの一つですので、それについてとやかく言うようなことは馬鹿馬鹿しいことではあるかもしれません。

 

 

 

ただ、そういう人達は玄米が体に良いことを分かっているにも関わらず、玄米を食べたいと思うことが出来ないとおっしゃるわけですが、それは一体なぜでしょうか?

 

 

 

その「なぜ」を考察していけば、そういった人達は自分(の快楽)のためばかりに食べているからという理由が導かれます。

 

 

 

・・・私はよく「思想の違い」と表現しているのですが、「自分(の快楽)のためばかりに食べること」「人のために食べること」では、その結果や有様に明確な違いが現れることをご存知でしょうか?

 

 

 

自分の快楽のために、自分が好きなものを食べることによって、自分の心(脳)の満足が得られるのは間違いないことです。

 

 

 

しかしながら現代社会において、各個人の快楽や満足のための食品が用意されるまでに、一体どれほどのエネルギーが消費されているのか?

 

それがどれほど多くの自然環境を荒らし、私達がこれまで住んできた環境をどれほどまでに変化させ続けているのか?

 

そしてキリのない自分の快楽によってもたらされる多大なエネルギー消費が、同じく自然環境の一部である自分の肉体、ヒトとしての肉体の健康をも荒らし続けているという事実。

 

 

 

・・・私はそういったところをを思いやった上で、自らの「食」という行為を営むことが「人の健康」のために大事だと考えています。

 

 

 

前々回に「自分の健康維持のための食の行為が、往々にして「人の健康」を蝕んでいる」と書きましたが、ただただ自分の健康のためばかりに食べ続けたところで、人としての健康、本当の健康は得られないのです。

 

 

 

・・・そもそも「自分」とは一体何でしょう?

 

 

・・・自分は「人」でありましょう。

 

 

そしてその「自分」とは、「人」とは何でしょう?

 

 

私達は一体何で構成されているのでしょう?

 

 

 

・・・私達はすべからく、あらゆる他の存在、自分を取り巻く環境のおかげをもって「自分」という存在が確立されています。

 

 

私達それぞれの心(意識)は、人としての肉体があって初めて存在できており、そしてその人としての肉体も心(意識)も、「今の環境」があればこそ存在し得るのです。

 

 

であるにも関わらず、私達それぞれが他の存在や環境を思いやることなく、「自分」の心や肉体の健康ばかりを求め続けているようであれば、やがて「自分」は「人」ではなくなっていってしまうこととなるでしょう。

 

 

「自分」はただの孤独な存在でしかなくなってしまうわけです。

 

 

 

「自分の健康」とは「人としての健康」があって成り立つものであり、「人の健康」とは他の存在、環境が生命体として健全であることに拠って成り立つものです。

 

 

本当に自分の健康、自分の満足を得たいのであれば、「人としての健康」のために食べることに自分の喜びを見出し、さらには他の存在や環境を構成する様々な生命の健康のためとなる食べ方、生き方に自分の喜びを見出すことが大事となるのです。

 

 

それが廻り回って自分の健康へとつながっていくわけです。

 

 

心も体も。

 

 

 

それが仏教でいうところの「身土不二」であり、「身」(今までの行為の結果)と、「土」(身がよりどころにしている環境)は同一のものであるという思想から導かれる事実なのです。

 

 

 

・・・環境調和型農業による食を選択していくことは、他の存在に「生」を与え、環境の保全へとつながり、それは同時に自分自身にも「生」を与えることとなるでしょう。

 

 

先進国に住む私たちは「何らかの価値」というものを、これからは自分の楽や便利といったものばかりでなく、「他の存在に生を与える」というところに見出し、そうしたことから得られる満足や喜びに「価値」を見出すことが大事だと私は考えています。

 

 

 

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前回の話はこちらから

 

 

・・・・キリなく活発化を求め続ける経済の動きの中で、私達は化石燃料などから得られる莫大なエネルギーや地球上の多様な物質を、ただただ消費し続けることによって、様々な「楽」「便利」といった価値を多くの人達に提供し続けてきました。

 

私達はそうした価値に”それぞれの自分の満足”を見出しながら生活を営んできました。

 

 

「楽」や「便利」という価値によって得ることができる自分の満足自分の安心といった己の感情のために、

 

莫大なエネルギーを消費しながら、様々なモノや環境をキリなく変化させ続け(コントロールし続け)

 

そうやって創り出したモノや環境に、これまたキリなく依存し続けながら私達は生活しているわけです。

 

 

そうした中で、先に説明したように社会においては経済の活発化を求める動きが止むことはありません。

 

それはつまり、現代社会に生きる私達はこれからも多大なエネルギーを消費し、モノや環境をキリなく変化させ続けなければ、自分達の生活を維持していくことができない・・ということでもあるわけです。

 

 

現代社会の中で生きる以上は、残念ながらその社会の流れ、経済の動きに抗うことは難しいでしょう。

 

 

 

そして次の認識が大事なのですが、そのような社会の流れに乗って自分の満足や安心のためばかりの行動をとり続けていれば、それによって蝕まれることになるのは「自分の健康」ではなく、「人の健康」「人としての健康」だということです。

 

 

 

・・・繰り返しますが、私達はこの社会の中で「自分にとっての楽や便利」といった価値を求め続け、その自分の満足のため(自分の健康維持のため)に自分以外の存在をキリなく変化させ、自分に都合が良いようにコントロールし続けることを推奨してしまっています。

 

そうやってそれぞれの人達が自分に都合が良いようにモノや自然環境を変化させ続けていれば、果てには人という存在の有様もが変化していってしまうのは当然の出来事なのです。

(自然を変化させ、人に都合よくコントロールしている実際の例として、食の分野においては”加工食品の乱立”や”食品の工業化”などが挙げられます) 

 

なぜならば、人の肉体とは他の様々な物質や環境によって構成されているものであり、それはまさしく自然環境そのものなのですから。

 

 

 

・・・では実際に人の存在の有様、人の肉体は一体どのように変化してきているのでしょうか?

 

 

それらの変化の具体的な例としては、玄米屋たいぞうの想い65でも書いたように、ヒトの生殖能力の低下自律神経系や内分泌系免疫系などの維持能力の低下などが一つの例として考えられます。

 

また地球上においてヒトの数が圧倒的に増加し続けていることも、人の存在の有様の変化、環境の変化の結果として挙げられます。

 

 

そして、さらには科学の発達により、「クローン」といった存在をも生み出すことの出来る技術が人間社会の中で確立されつつありますが、そうした技術によって寄与される個人にとってのさらなる便利や楽といった価値が、人としての存在の有様に今後どれほどの変化をもたらすことになるのかは想像に難くありません。

 

 

 

 

・・・・様々なモノや自然環境をそれぞれの自分にばかり都合が良いようにコントロールし続けてきたことにより、日本の食を取り巻く環境は「飽食」「崩食の社会」と呼ばれるようになって久しくありますが、そのような時代環境に生まれてきた人達はそうした状況がその人達にとっては普通だと認識します。

 

ラクな環境や便利なモノに慣らされてしまった人の心や肉体にとっては、その飽食や崩食と呼ばれるようにまで変化した社会環境こそが普通の状態となるわけです。

 

 

すると、そういった環境に順応した人達の中には、多大なエネルギーに依存しながらも、自分にとって都合よくコントロールされた環境でなければ生活できない、生きられない・・・という怖れの感情を生じさせてしまう方も少なくないのですが、人の健康、とくに人の心の健康を害する最も大きな要素の一つが、じつはこの「怖れの感情」なのです。

(ちなみに「怖れ」は「不安」とはまた少し違います)

 

 

この「怖れの感情」についてのくわしい話も、次回以降に「人の心の健康」と題して説明していきたいと思います)

  

 

 

・・・経済を活発化させようとする力は、

「より多くの人達により多くのモノを売ろう」

といった動きをも促進します。

 

そのため食の業界では、より多くの人達に「もっと欲しい!」「もっと食べたい!」と欲求されるような食品や、より安価な食品の開発などに拍車がかかり続けます。

 

 

経済は多くの人達の”食の欲望”を煽ることにも余念はありません。

 

 

そうやって”食の欲望”を煽られた人達の多くが、生じてしまった自分の欲望を満たすために、人の手によって様々にコントロールされた(加工された)食品や食のシーンなどを求めて快楽を得ようとするわけですが、その大きな快楽から必要以上に食べ過ぎてしまう人達も後を絶ちません。

 

そして食べ過ぎることでヒトが病気となるリスクは飛躍的にアップしてしまいます。

 

 

肉体の健康を害する最も大きな要因、科学的に因果関係が明確となっている事実が「必要以上に食べ過ぎること」なのです。

 

 

 

・・・・実際に病気になったり、病気になることを恐れだすと、次に人は医療業界に自分の安心や満足、便利といった価値を求めていくことになります。

 

医療業界においても、もちろん経済を活発化させようとする働きは作用しており、多くの人達に安心や満足を与えるための便利な医療サービスが次々と提供され続けています。

 

ですが、もし私達がその過剰ともいえるであろう医療行為に依存しなければ自分の健康を存続できないというのであれば、それはもはや人としての健康を著しく損なってしまっていると言えるのではないでしょうか。

 

 

なぜならば現代医療は膨大なエネルギーの消費を前提にして成り立っているため、それはつまりこれからも自然環境をキリなく変化させ続けなければ、現代医療を維持していくことは出来ないということになるからです。

 

それは言い換えれば、人(の肉体)の自然な有様をも自らキリなく変化させ続けなければ、現代医療の維持は成り立たない、つまり自分の健康を維持していくことができないということなのです。

 

 

なんとも皮肉なことですが。

 

 

また話は少しズレますが、今の医療業界が多額の税金の投入があって初めて成り立っているという事実も、これからは大きな問題となっていくことでしょう。

 

 

 

 

・・・ただ、こうした話を聞くと、大きな不安に襲われてしまう方々もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、人の不安を煽ることは私の本意ではありませんし、そのようなことは望んでもおりません。

 

 

先に申しました様に、私達がこうした社会の流れ、経済の動きに抗うことはまず不可能です。

 

そもそも、それが現代社会としてのある意味自然な流れですので、その自然の出来事に対して不安になることなどありません。

 

 

人の欲望を否定する必要もありませんし、経済の流れというものは”人が生活していく中で安心や安定を望む心”から生じている人のダイナミズムであり、ヒトという生物が常に安心というものを必要とする不安定な存在である以上、その流れを否定しても仕方がないのです。

 

 

 

・・・ただ、私達がその”自分の安心”、”自分の満足”、”自分の健康”を得るために、「楽」や「便利」といった価値に依存し続けることで、どれ程多くのエネルギーを消費使用し、結果として私達が住んでいる環境の秩序をどれほど乱し続けているのか?

 

そういった認識は人として持ち続けるべきであり、そうした事実に対しての何らかの対策の手段を考え、それを実行していくことが、私達が「人」として生きていくために大事な”思いやり”なのではないかと私は思うのです。

 

 

 

 

玄米屋たいぞうの想い76 ( 食と玄米と人の健康 後編 )につづく 

 

 

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 前回、国においても個人においても、自らが必要とするエネルギーを「自給自足」していないために、人の「自律」が阻まれてしまうのではないか?という私の考えを述べました。

 

その考えの裏付けとなる、過去と現在に起きた出来事を挙げてみます。

 

 

 

・・・過去、明治維新以降より始まった日本の資本主義ならびにエネルギー消費拡大生活は、やがて日本が第二次世界大戦に踏み切らざるを得ない状況を生み出しました。

 

かつての日本はなぜ戦争に突入しなければならなかったのか?

 

過去を振り返れば、それがエネルギー問題であったことがわかります。

 

石炭や石油といった化石エネルギーを持たない日本が、資本主義による自国経済を維持しながら、欧米列国と対等に渡り合うためにはどうしても資源の供給先が必要でした。

 

中国での利権や、欧米各国の植民地とされていた東南アジアの利権。

 

日本だけでなく世界各国が自国の経済を死守しようと、植民地および化石エネルギーの利権をめぐって一大戦争を引き起こしたわけです。

 

もし当時の日本が国民の生活に必要なエネルギーを自給自足できる状況にあったならば、そのような争いに参加することはなかったかもしれません。 

 

つまり己を律することができたはずです。

 

しかし化石エネルギーを持たない日本は、他国にエネルギーを依存した生活を享受している内に、そのエネルギー無しでは経済つまり生活を成り立たせることが不可能となってしまったために、戦争に突入せざるをえなくなった・・・と捉えることができるでしょう。

 

 

 

・・・そして現在、日本は小さな島国であるにも関らず、なぜ原子力発電のような大きな危険性を孕んだエネルギー調達手段を推進してきたのか?

 

それはかつて起こった2度の石油ショックが発端だと言われています。

 

時の政府は石油エネルギーに依存し続けることを危惧し、国内で安定して得ることができる大規模エネルギーとして原子力発電に光明を見出しました。

 

化石燃料資源の無い日本でも、原子力発電所をつくり大規模なエネルギーを「自給」できるようになれば、安定したエネルギー社会の構築を目指すことが出来ると。 

 

日本が自立したエネルギーの確保さえできれば、再び石油ショックのような事態が起こっても、国民の生産活動に大きな支障をきたすことなく「経済の発展」および「国民生活の安定」を望めると。

 

そのように考えた政府は原発を国のエネルギー政策として推進してきたわけです。

 

しかしその結果、どのような悲劇が生じることとなったのかは言うまでもありません。

 

 

この原発問題においても、大規模なエネルギーに依存し続けなければ経済も生活も成り立たせることができない私達が、化石燃料に代わる大規模エネルギーとして原子力発電しか選択肢がなかったために、危険であるのは分かっていてもそれを推進せざるをえなかった・・・と捉えることができるわけです。

 

先の大戦にしろ、原発事故にしろ、キリなく増加し続けるエネルギーに依存しなければ経済を保てない社会システムこそが人の律する行為を阻んでいると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

・・・ところで、人類のエネルギー消費量の推移を見てみると、日本においても世界においてもその推移は未だに右肩上がりを続けており、15年後の予測においてもさらなる増加が見込まれています。

 http://www.meti.go.jp/intro/kids/ecology/10.html

 

また、世界のCO2排出量の推移を見ても未だ右肩上がりであるのが現実です。

http://www.fepc.or.jp/future/warming/co2_hyouka/sw_index_02/index.html

 

 

もし私達がこの底無しのエネルギー依存を必要とする社会システムから脱却できないのであれば、私達が必要とするエネルギーの選択肢はやはり原発の推進以外に無いのかもしれません。

 

 

そうやってあきらめることで、私達人類はこれまで底無しにエネルギーを求め続け、底無しにエネルギーに依存し続けることによって「私達の環境」に様々な変化を引き起こしてきました。

 

先の戦争や前回に述べた熱帯雨林の破壊による砂漠化などもそうした変化の一部であり、福島県で現在進行形の環境破壊も私達こそが引き起こした環境の変化です。

 

 

底無しに増加していくエネルギーに依存しなければならない生活を、なぜ私達は止めることが出来ないのでしょうか?

 

 

18世紀から始まり、数十年先の未来でもエネルギーの増加が予見されている、キリのないエネルギー消費拡大生活から、私達はなぜ脱却することができないのでしょうか?

 

 

 

・・・・答えは簡単です。

 

 

それは私達の多くが、自らの衣食住を確保し続けるために「お金」を必要としているからです。

 

お金が無ければ自らの生活を維持することが出来ない社会システムの中にいるために、多くの人達が果てしない他人との競争の中でお金を求め続けてしまっているからなのです。

 

 

お金もある意味ではエネルギーであり、それは人の思念のエネルギーだと言えるでしょう。

 

つまり私達は自分の生活の維持を「人のエネルギー」に依存しているとも考えられるわけです。

 

 

・・・話が少々脱線しましたが、もし私達が自分の生活の維持をお金ではなく、自ら生産することができるエネルギーによって成り立たせることが出来れば、もう必要以上にお金を求めることも、必要以上に化石エネルギーや原子力エネルギーなどに頼る理由もなくなります。

 

実際に明治維新以前の日本人はそういったエネルギー社会を築いていたわけですが、では現代社会における私達はどういったカタチでエネルギーを自ら生産していくことが理想であり可能なのか?

 

 

 

・・・食糧エネルギーにおいては、やはり昔のように地域単位における米作を中心とした食糧生産こそが、日本の風土に最も適したエネルギー確保のあり方です。

 

私達一人ひとりが米の生産に何らかのカタチで関わり、米という循環型食糧エネルギーの消費を主体的に選択していくことで、全体としても過大なエネルギーの必要がなくなるのです。

 

わざわざ多大なる輸送エネルギーを使用して他国から食糧を輸入する必要もなければ、世界各国の熱帯雨林を破壊させる必要もなくなるのです。

 

また、多くの人達が(何らかのカタチで)米の生産に関ることによって、自らの消費意欲につながり、新たな雇用、様々な雇用も生まれ、日本国土の緑資源、環境等の保全にもつながります。

 (この雇用や環境保全については国としてのエネルギー政策、つまり食糧政策に関連する事業として非常に重要だと私は考えています)

 

 

私達の生活に必要なエネルギー(食糧)を私達一人ひとりがどう選択していくのか?

 

その一人ひとりの選択と意志(習慣)こそが、私達の未来の姿、子供達の未来の姿を決定づけているのです。

 

 

 

・・・化石燃料によるエネルギーは当然、私達が生産に関わることはできませんし、原子力発電によるエネルギーも私達一人ひとりが生産に関わることはまず出来ません。

 

あくまでも一部の人達にその権力が集中します。

 

したがって原発エネルギーは国としては自立したエネルギーであっても、私達一人ひとりからすれば結局はお金に依存しなければ得ることが出来ないエネルギーであるわけです。

 

お金に依存しなければ得ることができないようなエネルギーでは、人と人との果てしない競争により生じる様々な不幸はどうしても避けられません。

 

 

その点、循環型自然エネルギーは個人個人が生産することのできるエネルギーとして非常に有望です。

 

太陽光発電各家庭において設置が可能であり、すでに世帯レベルで消費される程度の電力は確保できる技術が確立されています。

 

風力発電も形状などの工夫により各家庭での設置は可能ですし、自治体レベルでの設置には様々な可能性が考えられるでしょう。

 

水力発電を考えれば、河川や農業用水を利用した小水力発電の普及を推進することにより、自治体レベルの自立エネルギーの確保に大きな可能性を見出せます。

 

 

 

・・・私達が今に必要な選択、今に求められていることは、18世紀から延々と続いている底無しのエネルギー依存生活からの脱却であり、それぞれが自立したエネルギーの生産を可能とすることで、自律を保ちながらも互いに手を取り合って日々を楽しく生きることのできる社会を創造していくことなのです。

 

 

大事なことはさらなるエネルギー消費拡大による「私達の発展」ではなく、自立した自然エネルギーによる「私達の安定」なのです。

 

 

私達は食糧にしろ、燃料にしろ、エネルギーの供給を他に依存してしまっているために「自律」することが難しくなってきています。

 

その例として、経済を優先し、人の安全性をないがしろにしたエネルギー供給の推進(原発の推進や戦争への参加)があり、

 

国の医療費の上昇分の約8割を占める生活習慣病の増加(先日新たに五大疾病として加わった精神疾患も、人の自律が困難となった例の一つです)などが挙げられるでしょう。

 

 

 

ですが、食糧にしろ燃料にしろ、自らで生産することによって必然的に自足することとなります。

 

そうやって自足することに依って初めて、人に「足るを知る」という自律の知恵が生まれるのです。

 

私達一人ひとりがエネルギーの自給自足を確立し、自律する知恵を持つことでようやく、個人においても私達(国)においても真に安定した生活を創造することができるのではないでしょうか。

 

 

くりかえしますが私達が本気で未来のことを考え、本気で子供たちのより良い未来、より良い環境を求めるのであれば、自らの生活エネルギーの選択に私達こそが責任を持たなければなりません。

 

未来により良い環境をつなぎ、次世代の人達のより良い未来を想うのであれば、キリなく他に依存することのない身の丈にあった生活と、その生活を維持していくために必要なエネルギーの選択こそに、私達が責任と覚悟を持たなければなりません。

 

 

 

・・・ツイッターでこんなことを書いている人がいました。

 

どうせ人間皆死ぬんだから、生きているうちに好きなことやって楽しんだ方がいいよ、と。

 

ちなみに私も、17歳の頃にC型肝炎に感染していることを知らされ当時の情報を鵜呑みにしていた時は、同じように考えていたものです。

 

どうせ早死にするんだから自分のやりたいことをやって太く短く生きたほうがイイに決まっていると。

 

 

・・・ですが、今の私の考えは違います。

 

どうせ人間、皆いつかは死ぬことは間違いありません。

 

しかし、どうせ死んでしまうからこそ、人は次の世代により良い社会と環境をつなげていくための力となることに自らの喜びを見出せるのです。

 

もし自分が死なない存在であれば(そう思い込んでいるのであれば)、そういったところに自分の喜びを見出すことはできないでしょう。

 

 

どうでしょう?皆さんは人間どうせ死ぬんだから、自分の好き放題にエネルギーを使い散らかして生きたほうが楽しいとお思いですか?

 

それとも、人間必ず死ぬからこそ次世代のためにより安定した社会、より良い環境を創造していくための力になったほうが楽しいとお思いになりますか?

 

あなたはどちらの生き方にワクワクしますか?

 

どちらの生き方に夢を見出せますか?

 

 

 

場当たり的でキリのない消費から生まれるお金に依って自らの生活を維持しようとするのではなく、お金がなくとも私達の生活を維持できるような社会の創造を見据えて生きる。

 

そのために「私達一人ひとりが自給自足できる自然エネルギーのインフラ拡充を求めていく」という、市場原理の枠から一歩外れた、国民全体の合意につながる「強い意志」「強い信念」が必要だと私は考えています。

 

 

18世紀から続くキリのない経済成長、エネルギー消費拡大をこれからも継続していくために原子力発電を利用するのではなく、

 

キリのないエネルギー消費拡大生活から脱却するために、

個人個人や自治体レベルで自給自足できるエネルギー社会基盤を創造していくために、

 

そのために今ある石油資源を利用していくという発想が大事なのです。

 

 

そのために今ある原子力施設の稼動がどうしても必要だというのであれば致し方ありませんが、あくまでもエネルギー消費拡大生活からの脱却が目的である以上、原発の推進が必要とならないのは自明の理ではないでしょうか。

 

 

 

 

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たいぞうの想い64にて、「健康を求めるのは、私達が楽しく生きるため、私達が幸せを得るためにそれが必要だから」という話をしました。

 

 

ただ、中には「楽しく生きるためなら、いちいち難しく考えずに面白おかしく食を楽しめばいいじゃないか、それのどこが悪いんだ?」と主張される方もおられます。

 

 

もちろん、本人が毎日面白おかしく食を楽しむことが幸せなんだと言い切るのであれば、その本人に向かっていちいちモノを言う必要など無いかもしれません。

 

 

ただ、忘れないで欲しいのは、健康を求める行為は”自分の快楽”のためだけにあるわけではないということです。

 

 

それは”人としての幸せ”、仕合わせを得るためでもありましょう。

 

 

”幸せ””仕合わせ”というものは、決して自分一人だけで得られるものではありません。

 

 

本当のシアワセを得るためには「自分以外の存在」が欠かせません。

 

 

そしてその自分以外の様々な存在が、自分と同様に健康であってこそ、私達は人生をより楽しむことができるのです。

 

 

本当の幸せ、本当に楽しい人生を求めるのであれば、相手の立場になって考える行為、つまり「思いやり」を忘れてはなりません。

 

 

自分が健康であること、健康であろうとすることは、自分のためばかりでなく自分以外の存在への思いやりの行為でもあるのです。

 

 

 

あなたが自分の好き勝手に食を楽しみ続け、肉体に支障をきたしてしまうようであれば、あなたを愛している人が深く傷付くことは当たり前のことでしょう。

 

 

あなたの恋人や親御さん、様々な縁者の方々が、あなたにできるだけ健康な姿でいて欲しいと思っているのは当然のことです。

 

 

あなたが自ら不健康に向かう姿を見続けることは、他の方々からすれば非常に不幸で残念なことなのですから。

 

 

 

私達は健康を求める行為が自分のためだけでなく、他者への思いやりでもあることを努々忘れてはなりません。

 

 

人として健康に生きようとする姿を、愛する人達、次世代の人達に魅せていく。

 

 

そんな「思いやり」があって初めて、人は本当の仕合わせを得ることが出来るのではないでしょうか。

 

 

そして他人だけでなく、様々な生き物達、様々なモノやコト、そして地球という存在をも思いやって生きることで、私達は本当の幸せを得ることが出来るのではないでしょうか

 

 

他の存在への思いやりの心を持たないまま、自分の快楽のためだけに生きれば、他の存在を犠牲にしたラクへの依存や怠惰の方向に流されてしまうものです。

 

 

私達は他者、他の存在への思いやりがあって初めて、自律のある本当の健康を創造することができる。

 

 

私はそう考えています。

 

 

 

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 世のご年配方の中に、若者の食生活の乱れを嘆き、軽蔑する方が少なくありません。

 

 

 しかし、今の子供達やこれから生まれてくる子供達が、自ら望んで今のような飽食の世の中にしたわけではないのです。

 

 

 飽食の世界に導いたのは、まぎれもなく我々大人だということを、しっかりと認識しなければなりません。

 

 

 私たち大人が、自らの瞬間の欲望を満たすものばかりを望んできたが故に、今の日本の姿があるのです。

 

 

 伝統を守ることを放棄し、目先の喜びを重視してきたことを、今こそ反省しなければなりません。

 

 

 我々大人こそが好き嫌いなどをなくす努力をし、苦い、酸っぱい、固いという一般に「不味い」と呼ばれる食べ物をも、「慈しむ心」を育まなければなりません。

 

 

 そして、真摯に伝統食を考え、現代にあった「より良い形」に発展させる努力をし、その背中を見せていくことが、本当の食育だと私は考えています。

 

 

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 より良い食文化を継承、創造することを真面目に考えたとき、今の資本主義社会というシステムが、その思いをどれほど踏みにじるものか、そのことに気付いている人は、いったいどれ位いるものでしょうか。

 

 

何も難しく考える必要なんてありません。

 

 

「自分の利益を最大限追求することが幸せを得る方法」というのが、資本主義思想の根源の一つです。

 

「食」においてはその「個人の利益」「快楽」に言い換えることもできるでしょう。

 

 

たいぞうの知る限り、過去数十年間、自分の快楽を得るための「食」ばかりがもてはやされ、そういった快楽を与える「食」を提供する企業ばかりが成長し続けています。

 

具体的にはファストフード店や焼肉店などを筆頭とした外食産業、コンビニエンスストアなどの圧倒的な隆盛が挙げられますね。

 

 

自分の快楽を否定することの出来る強さを持つ人は少ないのか、「食はエンターテイメントだ」などといって、自分の快楽を肯定する意見ばかりが支持されます。

 

 

そうして、自分の快楽を叶える「食」ばかりが市場にはびこり、快楽を与えない「食」は市場の片隅に追いやられ、挙句には市場から消えてしまうのが現代の社会の姿です。 

 

しかし、そのような市場にはびこる「食」とは、あくまでも自分の「快楽」を追求したものであり、環境などの「他の存在」や、「他人」の「利益」を追求したものとは言えないでしょう。

 

 

「他人」とは自分達の子供、子孫達も、もちろんその中に含まれます。

 

 

 

私は文化とは継承するものであり、次世代に繋いでいくものだからこそ、次世代を想ったカタチでなければならないと思っています。

 

誤解を恐れずに言えば、現時点の日本の食文化は、次世代を想ったものではなく、自分達の快楽を想ったものと言い切ることができるでしょう。(あえて言い切ります)

 

 

現在に生きる人達の、個人の単純な欲望のままに創られた食文化の中で生まれ育っていくことになるであろう、次世代の子供たちは本当に可哀想に思えてなりません。

 

これは「食」だけでなく、もっと大きな視野、分野で考えても同じ様に思います。

 

 

 

ですから、今こそ必要なことは、他人や他の存在の利益をも、自分の欲望として変換できる知恵や、他人や他の存在の利益のために行動したことを「評価」するシステムを創り上げることだと、たいぞうは考えています。

 

 

そのような評価をすることは、今の社会においては矛盾を生み出すことを、もちろん理解はしているのですが・・・。

 

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