前回の話はこちらから
玄米屋を始めてから、人からよく言われるのが
『玄米が体に良いのは分かってるんですけどねぇ・・。』
という言葉です。
「けどねぇ・・・」ということは、その後に続く言葉があるのでしょうが、要は「好きではない」、「食べたいと思わない」などといったところでしょうか。
またはその人の家族の中に、玄米が好きではない方が居られるのかもしれません。
人間、好き嫌いがあるのは当然のことであり、自分が食べたいと思う食べ物を食べることは「健康」であるために大事なことの一つですので、それについてとやかく言うようなことは馬鹿馬鹿しいことではあるかもしれません。
ただ、そういう人達は玄米が体に良いことを分かっているにも関わらず、玄米を食べたいと思うことが出来ないとおっしゃるわけですが、それは一体なぜでしょうか?
その「なぜ」を考察していけば、そういった人達は自分(の快楽)のためばかりに食べているからという理由が導かれます。
・・・私はよく「思想の違い」と表現しているのですが、「自分(の快楽)のためばかりに食べること」と「人のために食べること」では、その結果や有様に明確な違いが現れることをご存知でしょうか?
自分の快楽のために、自分が好きなものを食べることによって、自分の心(脳)の満足が得られるのは間違いないことです。
しかしながら現代社会において、各個人の快楽や満足のための食品が用意されるまでに、一体どれほどのエネルギーが消費されているのか?
それがどれほど多くの自然環境を荒らし、私達がこれまで住んできた環境をどれほどまでに変化させ続けているのか?
そしてキリのない自分の快楽によってもたらされる多大なエネルギー消費が、同じく自然環境の一部である自分の肉体、ヒトとしての肉体の健康をも荒らし続けているという事実。
・・・私はそういったところをを思いやった上で、自らの「食」という行為を営むことが「人の健康」のために大事だと考えています。
前々回に「自分の健康維持のための食の行為が、往々にして「人の健康」を蝕んでいる」と書きましたが、ただただ自分の健康のためばかりに食べ続けたところで、人としての健康、本当の健康は得られないのです。
・・・そもそも「自分」とは一体何でしょう?
・・・自分は「人」でありましょう。
そしてその「自分」とは、「人」とは何でしょう?
私達は一体何で構成されているのでしょう?
・・・私達はすべからく、あらゆる他の存在、自分を取り巻く環境のおかげをもって「自分」という存在が確立されています。
私達それぞれの心(意識)は、人としての肉体があって初めて存在できており、そしてその人としての肉体も心(意識)も、「今の環境」があればこそ存在し得るのです。
であるにも関わらず、私達それぞれが他の存在や環境を思いやることなく、「自分」の心や肉体の健康ばかりを求め続けているようであれば、やがて「自分」は「人」ではなくなっていってしまうこととなるでしょう。
「自分」はただの孤独な存在でしかなくなってしまうわけです。
「自分の健康」とは「人としての健康」があって成り立つものであり、「人の健康」とは他の存在、環境が生命体として健全であることに拠って成り立つものです。
本当に自分の健康、自分の満足を得たいのであれば、「人としての健康」のために食べることに自分の喜びを見出し、さらには他の存在や環境を構成する様々な生命の健康のためとなる食べ方、生き方に自分の喜びを見出すことが大事となるのです。
それが廻り回って自分の健康へとつながっていくわけです。
心も体も。
それが仏教でいうところの「身土不二」であり、「身」(今までの行為の結果)と、「土」(身がよりどころにしている環境)は同一のものであるという思想から導かれる事実なのです。
・・・環境調和型農業による食を選択していくことは、他の存在に「生」を与え、環境の保全へとつながり、それは同時に自分自身にも「生」を与えることとなるでしょう。
先進国に住む私たちは「何らかの価値」というものを、これからは自分の楽や便利といったものばかりでなく、「他の存在に生を与える」というところに見出し、そうしたことから得られる満足や喜びに「価値」を見出すことが大事だと私は考えています。
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