食文化のあり方というものを考えるときは、過去と現在、そして未来をしっかりと見つめる必要があります。
私達日本人がこれまでどのような食生活を営んできたのか?
そして今どのような食生活を営んでいるのか?
これから生きる人達はどのような食生活を営んでいくべきなのか?
私は今、過去と現在をしっかりと見つめることで、次世代に伝えていくべき食文化のあり方を見出すことに意義を感じています。
日本は終戦後、自由市場原理に基づいた資本主義社会の形成を歩んできたため、物質的な繁栄を飛躍的なスピードで果たすことに成功しました。
人間の欲望を最も効率的に満たす手段が資本主義だということなのでしょう。
資本主義の定義では、あらゆる事象において、あくまでも一人の人間の欲望の追求を優先させます。
つまり、複数の人間の集まりであるコミュニティの欲望をかなえるということは、一人の人間の欲望をかなえることの前には屈服してしまうというのが資本主義の前提なのです。
現代の日本は「食」のシーンにおいても、個人の欲望を最も満足させることのできる商品やサービスで溢れかえるようになりました。
そしてそのような商品、サービスは市場原理の中で、まだまだ増え続けることでしょう。
あくまでも「個人の欲望を満足させるもの」が優先して市場を席巻するのであり、コミュニティの欲望を満足させるような商品やサービスは、個人の欲望の前には隅に追いやられてしまうのです。
コミュニティを日本という国で考えたとき、日本人全体がより良く生きることのできる食のあり方というものをどれほど提案したところで、市場原理においては、各々の個人が欲する食が何よりも優先させられてしまいます。
今の日本という国は市場原理と飽食の文化の中で、人の本能をただ満たすことのできるハイカロリーな食物、柔らかい食物、甘い(旨い)食物がばかりもっとも脚光を浴び、非常に安価に、そして何時でも手軽に手に入れられるようになっているのです。
私は資本主義をただ否定しているわけではありませんが、「食」の分野については、これ以上資本主義主導のままに歩み続けるのは、世代間コミュニティの崩壊を招くのみと考えています。
世代でコミュニティを考えたとき、「子々孫々がより良く生きることができるような食や環境を残すこと」がコミュニティとしての欲望になります。
つまり子供達が健やかに育ち、より良い肉体を形成し、次の世代にさらなる進化を繋ぎ、永く健康でいることの出来る様な「食」や「環境」を欲することがコミュニティ、つまり「私達」という共同体としての欲望になるのです。
おそらくほとんどの人たちがこのような欲望を持って生きていると信じたいのですが、市場原理と資本主義思想の前では「より美味しい食」や「より手軽に摂取できる食」を欲するという個人の欲望のほうが優先され、その欲望を叶えるための商品や手段が市場を席巻してしまっているのが実際のところです。
こうした今の日本の状況を踏まえた上で、玄米屋たいぞうが考える次世代に伝えていくべき食文化を、以下に述べたいと思います。
玄米屋たいぞうはこれまでずっと本当の意味で人に喜んでもらえるようなサービスを提供できるよう、考え続けてきましたが、おそらく個人の欲望とコミュニティとしての欲望の両方すべてを叶える手段は無いといえるでしょう。
個人の「今食べたいものを食べる」という単純な欲望は、決して未来を見据えたものではないと思います。
人間がより美味しい食べ物、より旨い食べ物を求めることは、より多くのエネルギーを必要とすることに他なりません。
玄米屋たいぞうの想い16でも述べたように、エネルギー保存の法則に基づくと、より多くのエネルギーを必要とするということは、その代償としてその分の何かを捨てなければならないということがあります。
そしてもう一つ、「食べ物を獲得することが、より便利になる」ということは、「生物として怠惰になる」ということを認識する必要があります。
若年の頃から、噛む必要の無い様な柔らかい食べ物ばかり摂取し続けたり、サプリメントなどの直接的な栄養の摂取を続けることは、肉体をただ甘やかし続けることとなり、生物としての退化を促すことにもなるのです。
以上のようなことから、本当に人の為となる「食」を提案するためには、より少ないエネルギーでより良い生を得ることの出来る「食のあり方」を考えることや、肉体にある程度のストレスを与える食事を楽しむ手段を提供することが、次世代に繋ぐべき「食のあり方」の一つとして重要であると私は結論付けました。
赤ちゃんに大人が食べるような苦い食べ物や酸っぱい食べ物をちょっと舐めさせたりすると、とたんに泣き出したり、嫌な顔をしたりします。
しかし砂糖水を舐めさせると笑顔で嬉しそうな態度をとります。
これが本能レベルでの欲求の違いです。
本能の欲求に忠実であるということは、ただ幼稚であるということといえるでしょう。
春の味覚の一つであるふきのとう。
とてもアクがつよく苦いので私は子供の頃は嫌いでしたが、様々な食体験を経て、今の私の好物の一つに挙げられます。
つまり本能においては苦い食べ物というのは敬遠されるものですが、それを乗り越えたことで苦い食べ物からも栄養を摂取することが出来るようになったのです。
本能を乗り越え、様々なものを摂取することが出来る雑食性の生物に進化したからこそ、人間は生物界の頂点に立つことができたのです。
本能を乗り越えたところに喜びを見出すことが出来るからこそ、生物としてのより良い進化を果たすことができるのです。
「昔からの伝統食を未来に残すという具体事例だけではなく、精神的な文化を伝えていく」
それが今のたいぞうが考える、より良い食文化を創り上げるために必要な心の在り方です。
玄米屋たいぞうは本能を乗り越えたところにある喜びを見出し、その喜びを伝えることでより良い文化を後世に伝え、子々孫々のより良い繁栄をもたらすことが出来るようなサービスを、これからも考え続けていきたいと思います。
玄米屋たいぞうの想い46 ” 玄米屋たいぞうという店 ” につづく

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