食の安心と確固たる信念に生きる店”玄米屋たいぞう”(Ⅳ) オリジナルコンテンツ › > 食育関連

食育関連

 

前回の話はこちらから

 

 

・・・・キリなく活発化を求め続ける経済の動きの中で、私達は化石燃料などから得られる莫大なエネルギーや地球上の多様な物質を、ただただ消費し続けることによって、様々な「楽」「便利」といった価値を多くの人達に提供し続けてきました。

 

私達はそうした価値に”それぞれの自分の満足”を見出しながら生活を営んできました。

 

 

「楽」や「便利」という価値によって得ることができる自分の満足自分の安心といった己の感情のために、

 

莫大なエネルギーを消費しながら、様々なモノや環境をキリなく変化させ続け(コントロールし続け)

 

そうやって創り出したモノや環境に、これまたキリなく依存し続けながら私達は生活しているわけです。

 

 

そうした中で、先に説明したように社会においては経済の活発化を求める動きが止むことはありません。

 

それはつまり、現代社会に生きる私達はこれからも多大なエネルギーを消費し、モノや環境をキリなく変化させ続けなければ、自分達の生活を維持していくことができない・・ということでもあるわけです。

 

 

現代社会の中で生きる以上は、残念ながらその社会の流れ、経済の動きに抗うことは難しいでしょう。

 

 

 

そして次の認識が大事なのですが、そのような社会の流れに乗って自分の満足や安心のためばかりの行動をとり続けていれば、それによって蝕まれることになるのは「自分の健康」ではなく、「人の健康」「人としての健康」だということです。

 

 

 

・・・繰り返しますが、私達はこの社会の中で「自分にとっての楽や便利」といった価値を求め続け、その自分の満足のため(自分の健康維持のため)に自分以外の存在をキリなく変化させ、自分に都合が良いようにコントロールし続けることを推奨してしまっています。

 

そうやってそれぞれの人達が自分に都合が良いようにモノや自然環境を変化させ続けていれば、果てには人という存在の有様もが変化していってしまうのは当然の出来事なのです。

(自然を変化させ、人に都合よくコントロールしている実際の例として、食の分野においては”加工食品の乱立”や”食品の工業化”などが挙げられます) 

 

なぜならば、人の肉体とは他の様々な物質や環境によって構成されているものであり、それはまさしく自然環境そのものなのですから。

 

 

 

・・・では実際に人の存在の有様、人の肉体は一体どのように変化してきているのでしょうか?

 

 

それらの変化の具体的な例としては、玄米屋たいぞうの想い65でも書いたように、ヒトの生殖能力の低下自律神経系や内分泌系免疫系などの維持能力の低下などが一つの例として考えられます。

 

また地球上においてヒトの数が圧倒的に増加し続けていることも、人の存在の有様の変化、環境の変化の結果として挙げられます。

 

 

そして、さらには科学の発達により、「クローン」といった存在をも生み出すことの出来る技術が人間社会の中で確立されつつありますが、そうした技術によって寄与される個人にとってのさらなる便利や楽といった価値が、人としての存在の有様に今後どれほどの変化をもたらすことになるのかは想像に難くありません。

 

 

 

 

・・・・様々なモノや自然環境をそれぞれの自分にばかり都合が良いようにコントロールし続けてきたことにより、日本の食を取り巻く環境は「飽食」「崩食の社会」と呼ばれるようになって久しくありますが、そのような時代環境に生まれてきた人達はそうした状況がその人達にとっては普通だと認識します。

 

ラクな環境や便利なモノに慣らされてしまった人の心や肉体にとっては、その飽食や崩食と呼ばれるようにまで変化した社会環境こそが普通の状態となるわけです。

 

 

すると、そういった環境に順応した人達の中には、多大なエネルギーに依存しながらも、自分にとって都合よくコントロールされた環境でなければ生活できない、生きられない・・・という怖れの感情を生じさせてしまう方も少なくないのですが、人の健康、とくに人の心の健康を害する最も大きな要素の一つが、じつはこの「怖れの感情」なのです。

(ちなみに「怖れ」は「不安」とはまた少し違います)

 

 

この「怖れの感情」についてのくわしい話も、次回以降に「人の心の健康」と題して説明していきたいと思います)

  

 

 

・・・経済を活発化させようとする力は、

「より多くの人達により多くのモノを売ろう」

といった動きをも促進します。

 

そのため食の業界では、より多くの人達に「もっと欲しい!」「もっと食べたい!」と欲求されるような食品や、より安価な食品の開発などに拍車がかかり続けます。

 

 

経済は多くの人達の”食の欲望”を煽ることにも余念はありません。

 

 

そうやって”食の欲望”を煽られた人達の多くが、生じてしまった自分の欲望を満たすために、人の手によって様々にコントロールされた(加工された)食品や食のシーンなどを求めて快楽を得ようとするわけですが、その大きな快楽から必要以上に食べ過ぎてしまう人達も後を絶ちません。

 

そして食べ過ぎることでヒトが病気となるリスクは飛躍的にアップしてしまいます。

 

 

肉体の健康を害する最も大きな要因、科学的に因果関係が明確となっている事実が「必要以上に食べ過ぎること」なのです。

 

 

 

・・・・実際に病気になったり、病気になることを恐れだすと、次に人は医療業界に自分の安心や満足、便利といった価値を求めていくことになります。

 

医療業界においても、もちろん経済を活発化させようとする働きは作用しており、多くの人達に安心や満足を与えるための便利な医療サービスが次々と提供され続けています。

 

ですが、もし私達がその過剰ともいえるであろう医療行為に依存しなければ自分の健康を存続できないというのであれば、それはもはや人としての健康を著しく損なってしまっていると言えるのではないでしょうか。

 

 

なぜならば現代医療は膨大なエネルギーの消費を前提にして成り立っているため、それはつまりこれからも自然環境をキリなく変化させ続けなければ、現代医療を維持していくことは出来ないということになるからです。

 

それは言い換えれば、人(の肉体)の自然な有様をも自らキリなく変化させ続けなければ、現代医療の維持は成り立たない、つまり自分の健康を維持していくことができないということなのです。

 

 

なんとも皮肉なことですが。

 

 

また話は少しズレますが、今の医療業界が多額の税金の投入があって初めて成り立っているという事実も、これからは大きな問題となっていくことでしょう。

 

 

 

 

・・・ただ、こうした話を聞くと、大きな不安に襲われてしまう方々もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、人の不安を煽ることは私の本意ではありませんし、そのようなことは望んでもおりません。

 

 

先に申しました様に、私達がこうした社会の流れ、経済の動きに抗うことはまず不可能です。

 

そもそも、それが現代社会としてのある意味自然な流れですので、その自然の出来事に対して不安になることなどありません。

 

 

人の欲望を否定する必要もありませんし、経済の流れというものは”人が生活していく中で安心や安定を望む心”から生じている人のダイナミズムであり、ヒトという生物が常に安心というものを必要とする不安定な存在である以上、その流れを否定しても仕方がないのです。

 

 

 

・・・ただ、私達がその”自分の安心”、”自分の満足”、”自分の健康”を得るために、「楽」や「便利」といった価値に依存し続けることで、どれ程多くのエネルギーを消費使用し、結果として私達が住んでいる環境の秩序をどれほど乱し続けているのか?

 

そういった認識は人として持ち続けるべきであり、そうした事実に対しての何らかの対策の手段を考え、それを実行していくことが、私達が「人」として生きていくために大事な”思いやり”なのではないかと私は思うのです。

 

 

 

 

玄米屋たいぞうの想い76 ( 食と玄米と人の健康 後編 )につづく 

 

 

玄米屋たいぞうの想い74 ( 食と玄米と人の健康 前編 ) に戻る

 

 

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今回は「人の健康」というものについて、私が考えていることを書いてみたいと思います。

 

 

玄米屋たいぞうでは、日々の食生活の中で玄米を主食とする食習慣を取り入れることを多くの人達に勧めているわけですが、なぜそれを勧めるのかと問われれば、それはもちろん玄米を食べることが「人の健康づくり」に役立つからです。

 

私は『健康』というものを考える際には、「人の心の健康」「人の身体の健康」「人の環境の健康」といった3つの健康軸があり、それらがそれぞれに複雑、密接に関わりあっていることを認識することが大事だと考えています。

 

そうした考えの下で、私は日々の生活の中に玄米を主食とする食習慣を取り入れることが、それら3つの健康づくりに大いに役立つと確信し、人様に玄米を推奨しているというわけです。 

(3つの健康軸の概念について、そしてそれらがどう関わりあっているのか?についてのくわしい話は、次回以降に書いていきます)

 

 

・・・ところで、食と人の健康の関係を考えますと、私は基本的には、その時々に自分が食べたいと思う食べ物を腹七~八分目程度に摂取していくことが、「自分の健康維持」に最も役立つ食べ方だという風に考えてはいます。

 

ですが、現代社会においてはその「自分の健康維持」のための食の行為が、往々にして「人の健康」を蝕んでしまっているという事実があるのです。

 

なぜそうなるのか?と不思議に思われる方も少なくないと思いますので、少し長くなりますが具体的な説明をしてみましょう。

 

 

・・・そのためにまずは現代社会の特徴を考えてみます。

 

現代社会というものは、その中で常に経済を活発化させようとする力が働いていますが、それはつまり人と人との間でのお金のやり取りを活発化させようとする働きであります。

 

なぜそのような力が働くのかと言えば、それは人が社会の中で生活していくためにはお金こそが必要とされているからですが、人が自分の生活のために必要なお金を得るためには、他人に対して何らかの価値を提供し続けていかなければなりません。 

 

現代社会では人が人に対して何らかの価値を提供する際には、お金のやり取りを伴う仕組みとすることが推奨されておりますので、そうしたやり取りが活発化すればするほど、人は互いに満足感や幸福感を得ることができるわけです

 

そのため、社会では「お金のやり取り」「他人に対して何らかの価値を提供する動き」が推奨され続けています。

 

それが経済の活発化を求める力の正体であり、つまりそれは満足や喜び、安心というものを求め続ける「人の欲望」が生み出している力なのです。

 

 

・・・日本の食の業界においても、そうした経済の活発化の働きにより、人々の間で様々な価値が提供されあってきました。

 

その結果どうなったかと言えば、日本中で、いつでも、どこでも、様々な種類の、非常に美味しい食品を、安価に、非常に手軽に、様々なシーンで、楽しむことが出来る環境が、めでたく形成される運びとなったわけです。

 

それは世界でも一、二位を競うほどに恵まれた食環境です。

 

しかし、私達の食の環境がそこまで便利で、人にとって完全に満たされたと言えるであろう状況となったにも関わらず、社会が経済の活発化を求める動きを止めることはありません。

 

なぜなら人と人との間でのお金のやり取りが滞ってしまえば、多くの人達が生活に支障をきたすことになってしまうからです。

 

 

自分達の生活の安定のために、

または自分達の喜びや満足のために、

 

経済の動きは常に活発であることを求め続け、人に満足感を与えるような何かしらの価値をより多くの人達に提供しようとし続けます。

 

 

・・・そしてここからが問題となるわけですが、人が何らかの価値を受け取り、対価としてお金を支払う際には大抵の場合、自分にとって「楽」「便利」といった価値でなければ納得してお金を支払うことなどありません。

 

つまり自分にとって苦しいと感じることや、不便と感じるモノやサービスに満足してお金を支払う人などはまず居ないのです。

 

ですから、経済というものは多くの人達の欲望、我欲の感情を煽りながら、人にとってさらなる「楽」や、より「便利」と感じさせるような価値を半ば強引といえるまでに提供し続けていくわけです。

 

 

食の業界においては、サプリメントなどのようにラクに栄養が摂取でき、なんとなく安心感を与えるような健康商品の販売量が増加の一途を辿っていることや、私達の食を取り巻く環境が「飽食」「崩食」などと呼ばれるようになって久しい状況などが端的にそうした事実を現していると言えるでしょう。

 

 

・・・しかしなぜそれらが「人の健康」を蝕むことになっているのでしょうか?

 

 

玄米屋たいぞうの想い75( 食と玄米と人の健康 中編 ) につづく

 

 

 

玄米屋たいぞうの想い73(原発問題と食の問題 其の三 ) に戻る

 

 

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龍ヶ崎かな子

今の日本人の中で、子供の頃から玄米を主食にして育ってきた人は非常に少ないため(私も玄米を主食にするようになったのは30歳になってからです)、子供に玄米を食べさせることが不安な親御さんや、迷いをお持ちの親御さんはかなり多いようです。

 

 

心配されるお気持ちはよく分かりますが、子供の頃から玄米を主に食べてきて健康に暮らしておられる人は、少数派とはいえそれなりにいらっしゃるわけで、別に玄米を食べることが子供の成長に悪影響を与えるなどといったことは無いと断言できるでしょう。

 

 

明治維新以前には、田舎の平民の多くが幼少の頃から分搗き玄米を主食としながら生活していましたし、玄米ではなく白米を尊重した江戸の町民の間では「江戸患い」といって脚気が流行していました。(いわゆる当時の現代病ですね)

 

 

玄米には人の生存のために必要な営養素が豊富に含まれている上に、質の良い食物繊維などの存在が、人の体内の活動において非常に有益となるのです。

 

 

首なが以蔵とはいえ、現代社会では様々な便利で美味しい食べ物が溢れておりますので、それらに味をしめてしまった子供達に、むりやり玄米を食べさせようとすることは玄米屋たいぞうとしてもオススメしません。

 

 

これまでこのホームページに色々と書いてきたように、白米や食パンなどの精製された食品、甘い食品を知ってしまった後では、人は玄米のような未精製の食品は本能レベルで敬遠するようになるのです。

 

 

それは人として自然な出来事ですので、いくら玄米が身体の健康に良い影響を与えるとはいえ、無理に勧めることは互いの心の健康に良くありません。

 

 

そういったところを重々ご認識していただいた上で、美味しい玄米ごはんをお子さんと共にお楽しみいただけたら幸いです。

 

 

 

このホームページの中にある「子供と玄米」に関りある記事を、以下にご紹介しますので、ぜひご覧になってください。

 

 

 

Q.玄米は消化が悪いから子供には良くないのでしょうか?

 

Q.夫や子供が玄米を嫌がるのですが・・・

 

Q.玄米は子供には向いていないのでしょうか?

 

玄米屋たいぞう便り第12号「孤食問題」

 

玄米屋たいぞうの想い45(たいぞうの考える食文化のあり方2009)

 

 

 

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たいぞうの想い64にて、「健康を求めるのは、私達が楽しく生きるため、私達が幸せを得るためにそれが必要だから」という話をしました。

 

 

ただ、中には「楽しく生きるためなら、いちいち難しく考えずに面白おかしく食を楽しめばいいじゃないか、それのどこが悪いんだ?」と主張される方もおられます。

 

 

もちろん、本人が毎日面白おかしく食を楽しむことが幸せなんだと言い切るのであれば、その本人に向かっていちいちモノを言う必要など無いかもしれません。

 

 

ただ、忘れないで欲しいのは、健康を求める行為は”自分の快楽”のためだけにあるわけではないということです。

 

 

それは”人としての幸せ”、仕合わせを得るためでもありましょう。

 

 

”幸せ””仕合わせ”というものは、決して自分一人だけで得られるものではありません。

 

 

本当のシアワセを得るためには「自分以外の存在」が欠かせません。

 

 

そしてその自分以外の様々な存在が、自分と同様に健康であってこそ、私達は人生をより楽しむことができるのです。

 

 

本当の幸せ、本当に楽しい人生を求めるのであれば、相手の立場になって考える行為、つまり「思いやり」を忘れてはなりません。

 

 

自分が健康であること、健康であろうとすることは、自分のためばかりでなく自分以外の存在への思いやりの行為でもあるのです。

 

 

 

あなたが自分の好き勝手に食を楽しみ続け、肉体に支障をきたしてしまうようであれば、あなたを愛している人が深く傷付くことは当たり前のことでしょう。

 

 

あなたの恋人や親御さん、様々な縁者の方々が、あなたにできるだけ健康な姿でいて欲しいと思っているのは当然のことです。

 

 

あなたが自ら不健康に向かう姿を見続けることは、他の方々からすれば非常に不幸で残念なことなのですから。

 

 

 

私達は健康を求める行為が自分のためだけでなく、他者への思いやりでもあることを努々忘れてはなりません。

 

 

人として健康に生きようとする姿を、愛する人達、次世代の人達に魅せていく。

 

 

そんな「思いやり」があって初めて、人は本当の仕合わせを得ることが出来るのではないでしょうか。

 

 

そして他人だけでなく、様々な生き物達、様々なモノやコト、そして地球という存在をも思いやって生きることで、私達は本当の幸せを得ることが出来るのではないでしょうか

 

 

他の存在への思いやりの心を持たないまま、自分の快楽のためだけに生きれば、他の存在を犠牲にしたラクへの依存や怠惰の方向に流されてしまうものです。

 

 

私達は他者、他の存在への思いやりがあって初めて、自律のある本当の健康を創造することができる。

 

 

私はそう考えています。

 

 

 

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玄米屋たいぞう便り第15号.JPG

 

 

 現在、日本人の平均寿命は男性約79歳、女性約86歳とその延びは衰えることなく、日本は世界で最も長寿を誇る国として世界にその名を轟かせています。

 

 ただし、これはあくまでも寿命が長いということだけであって、健康であるということを示しているわけではありません。 

 

 勘違いされる方も少なくないのですが、寿命の長さと健康であるかどうかについては、実は相関性はないのです。  

 

 

 それについての洞察は、また別の機会にでも書きたいと思いますが、今回は「平均寿命が延びていく中で、健康であるためにはどうあるべきか?」について私の意見を書いてみます。  

 

 

 

 日本人の寿命が世界で最も長い理由の一つとして、日本の医療機関および医療技術の発展と、その高度な医療を多くの人達が低コストで享受できる福祉体制の完備が挙げられるでしょう。 

 

 日本では何らかの病気に罹ってしまった際にも、高度な医療技術や病気の改善に効果的な薬を安価に得ることができますので、多くの人達がそれにより健康体を取り戻すことが可能となっています。 

 

 薬に頼り続けることで健康体を維持している方々が多いのも実際のところでしょう。 

 

 

 そうした中で日本の医療機関は今も世界トップレベルの発展を遂げてはいますが、あくまでも病気を克服するための医学ばかりが中心であり、病気の予防という概念においてはあまり進展がありません。  

 

 食生活などで病気を予防するという視点や予防医学は、医療機関においては未だに重要視されているとは言い難いのです。 

 

 

 

 さて、今の日本人が患う病気の半数以上が、じつは食生活に起因するものばかりであることを皆さんはご存知でしょうか? 

 

 日本人に増加した病気に限ると、そのほとんどが食生活に大きな原因があることが明らかとなっています。   

 

 

 そうした事実があるにも関らず、未だに予防医学の分野は脚光を浴びず、病気になった人にのみ対応するという、後手に回った対処法ばかりが発展しているのは何故でしょうか?  

 

 これはおそらく国民こそが「自らで病気を予防する」という概念を持っていないがために、そのような結果になっているのではないかと私は考えています。  

 

 

 自らで病気を予防しようという努力をせずに、いざ病気になってから医者に頼り、その後の自分の健康を薬などに頼り続けるといったことは、それは果たして本当の意味での健康だと言うことができるのでしょうか?  

 

 

 国民の平均寿命の延び以上に、国の医療費の増加が留まるところを知らないという現実がある中で、子々孫々へと繋げるべき本当の健康、つまり心の健康、肉体の健康、そして社会の健康を創り上げるためには、まずは私達一人ひとりが食生活を見直して生きていくことが大事なのではないか? 

 

 

 食べ方、食生活の改善をもって病気を予防していくことこそが、この社会において私達一人ひとりが与えられた生を幸せに生きるために、今に必要とされていることなのではないかと私は考えてしまうのです。

 

 

 

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先日、非常に感心する言葉に出会いました。

 

 

「僕達は別に健康のために生きてるわけじゃない。楽しく生きるために健康が必要なだけなんだから」

 

 

この言葉は「玄米せんせいの弁当箱」という漫画の中で書かれていた言葉だそうです。

 

 

私はそれをツイッターというソーシャルメディア上で知ることができました。

 

 

これぞまさしく核心をついた言葉であり、この言葉をもっと深く掘り下げることで多くの「理」が見えてきます。

 

 

 

例えば「楽しく生きるため」とは「幸せを得るため」とも言い換えることができるでしょう。

 

 

また、「仕合わせを得るため」と言い換えても結構です。

 

 

 

 

そして私の持論として、「健康」には「3つの健康」が存在していると考えているのですが、

 

 

 

一つは人の肉体の健康、

 

一つは人の心の健康、

 

そしてもう一つが人の環境の健康です。

 

 

 

私達が「楽しく生きるために」「幸せを得るために」「仕合わせを得るために」

 

 

その3つの健康の存在が欠かせません。

 

 

 

肉体に何らかの支障があれば、「仕合わせ」を得るための行為がどうしても困難になるものです。

 

 

に何らかの支障があれば、「楽しく生きること」は難しいでしょう。

 

 

そして自分の周囲の環境に何らかの支障があるようであれば、それは「幸せ」とは言い難いかもしれません。

 

 

 

私達が「健康」であるためには「肉体」「心」「環境」の3つの健康が欠かせないのです。

 

 

 

そして、それらは密接に絡み合っており、どれか一つの健康が欠けたとしても、他の二つがそれをカバーすることで、私達は健康を維持することが可能になります。

 

 

 

例えば、肉体に支障が起きたとしても、自分の心一つで健康は保つことができますし、自身の環境が健康であれば、楽しく生きることも、幸せを得ることも、仕合わせを得ることも可能でありましょう。

 

 

人の心に何らかの支障が起きた際も、周囲の環境が健全であればその心を支えることも可能です。

 

 

健全な肉体があれば心の回復も早いでしょう。

 

 

  

そして環境に何らかの支障があった場合、私達の心と肉体の健康をもって環境の健康を図ることで、それが廻り廻って私達の健康を支えてくれることとなり得るのです。

 

 

 

今、私はあらためて自身の心と身体の健康を持って、環境の健康を支えていくための力になりたいと考えています。

 

 

それが今の私が楽しく生きるために必要なことであり、未来の私と子供達にとっての健康を支える行為になり得ると私は信じているのです。

 

 

 

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玄米屋たいぞう便り12

 

今回の玄米屋便りでは前回に引き続き「食育問題」を取り上げ、その大きな問題の一つである「孤食」について書きたいと思います。

 

 

 

「孤食」とは文字通り「孤独な食事」を指し、もうずいぶんと前からその食のあり方が問題視されていますが、にも関わらず現代社会の孤食化の傾向には歯止めが効かないのが実際のところです。 

 

 

2005年には40%以上の小学生が子供だけで朝食を摂っているというデータがでており、また最近の調査では15歳から29歳の社会人の56%が朝食を一人で摂っているという調査結果も報告されています。(クロスマーケティング社調べ)

 

 

孤食を問題視する背景には、子供の精神的な発達の阻害を危惧する声が最も多く、他には食事が味気なく感じるといったことや、寂しい孤独感から生じる様々な依存症などが挙げられています。

 

その他にも偏食による栄養の偏りや、不規則な食事による健康の喪失などが重要視すべきことでしょう。

 

 

一体なぜ現代社会では孤食化の傾向が進んでしまうのでしょうか?

 

 

その原因として前回や第7号の玄米屋便りなどに書いたように、社会が「ラク」「快楽」ばかりを求めることを正義化しているというところにあると私は睨んでいます。

 

 

前回の玄米屋便りにも書きましたが、人にとって「自由」というものは「ラク」そのものです。

 

自由気ままに食事を得ることはまさしく快楽でありましょう。

 

 

逆に自由を目の前にして、他者から束縛されること、規律を求められることは大いなる苦痛を感じるものです。

 

規律や秩序を保つという行為は人にとって「苦」そのものなのです。

 

 

ですから、多くの人達が苦を避けラクを求め続けるようであれば、そうした背中を見て育った子供は同様によりいっそうのラクを求め続けるようになり、結果ますますの孤食化が推進されていくというわけなのです。

 

 

また、もう一つの根本的な問題として「コミュニケーション不足により諸々の弊害が生じている」という事実が挙げられますが、しかしなぜ現代社会の私達にはコミュニケーションが不足するような事態が起きてしまうのでしょうか? 

 

 

「家族との食事の時間を出来るだけ作りましょう」とか「食事を楽しみましょう」などといった具体的なコミュニケーション行動を推進させようとする意見は数多くあるようですが、これも本質的なところを見据えることなく表面的なところを取り繕うばかりでは、真の問題解決には決して至らないでしょう。

 

 

コミュニケーション不足といった問題の本質にも、やはりラクを求めてしまっている人の心の存在があるのです。

 

忙しいことが理由で出来合いの弁当や外食など、自分にとっても子供にとってもラクな食事を用意してしまう。

子や他人と食事を共にすれば、ただでさえ忙しい自分の時間が無くなってしまうため、一人での食事を選んでしまう。

 

 

孤食の問題には社会構造が強く影響しており、実際に多くの人達が忙しさに追われているという現実がありますので、その解決は言葉でいうほど簡単なことではありません。

 

ですが、何よりもラクを求めてしまう自分の弱き心の改善にこそ、あらゆる問題解決の糸口があるという事実を自覚することこそが、皆に共通する初めの一歩なのではないかと私は思うのです。

 

 

孤食問題は本当に奥が深く、この場で語りつくせるほど簡単な問題ではありませんが、苦を共に楽しむこと、つまり秩序や規律を保つ行為を他の人達と楽しむ心を育むことこそが、今の老若男女すべての人に求められているのではないでしょうか。

 

 

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前回の玄米屋たいぞうの想い60では、マクロビオティックに対して私の意見を述べました。

 

 

その中で私はマクロビオティックの思想には人がより良く活きるために足りていないモノがあると考え、その足りていない思想の一つとして”陰陽思想を捉え違いしないために必要な、根本たる思想の欠如”があることを述べました。

 

 

そして今回は私の考える”マクロビオティックに足り得ていないもう一つの思想”について語りたいと思います。

 

 

 

 

・・・その考えを結論から先に言えば「マクロビオティックには夢が無い」ということです。

 

 

 

 

マクロビオティックの思想の一つには「身土不二」という考えがあるのですが、これは元々は仏教の教え、仏典にある言葉です。

 

 

その本来の意味を私なりに解釈した言葉で語れば、「自分の眼前に広がる世界が自分の鏡であって、同時に自分はその世界の鏡と成っている」ということだと言えましょう。

 

 

 

ですが、マクロビオティックにおいての身土不二とは、「人が食料とするに最も適したモノは、その人の生まれ育った場所で採れるモノであり、地元の旬の食品や伝統食が身体に良い」という考えを指しているようです。

 

 

 

しかし、自分の生まれ育った場所で採れるモノを食べること(最近の言葉でいえば”地産地消”と言い換えることができるでしょう)が最も身体に良いという考えは、私に言わせればそれは単純過ぎる保守的思想であり、もしその保守的な考えのみに囚われてしまう様であれば、それは人にとってあまりにも夢が無い行為だと言えるのではないか?と、私は考えているのです。

 

 

 

人という存在の意識は常に”自由”を求めているものです。

 

 

 

”食”においては、人の意識というものは「美味しいものを食べたい」、「快楽を感じる食べ物を食べたい」などと求めているのが、自然な姿だと言えるでしょう。

 

 

また、”見聞”においても、人は「もっと遠くへ行きたい」などと自由を求めるものであり、先進国においては今では多くの人達がたやすく地球の裏側にも足を運ぶことができるようになりました。

 

 

その結果、私達は自分の住むところから遠く離れたところで採れるような食料であっても容易に手に入れることができるようになったわけです。

 

 

これは人が自由を求め続ける存在であるがゆえの結果であり、自由こそがまさしく”人の夢”だと言えるのです。

 

 

 

そして今では人の夢は、宇宙という外界にまで自由を求めるところにきています。

 

 

 

・・・話が逸脱しましたが、このような人の意識における本質的な欲望を無視して、安易に「自分の生まれ育った場所で採れる食物を食べることが最も身体に良い」といった結論を出すことには、私は大いなる疑問を感じます。

 

 

 

科学の発達した現代社会において、グローバルな営みを続ける今の私達にとっての生まれ育った場所とは、もはや「地球」なのです。

 

 

 

そうした事実を認識すれば、現代の先進国に住む私達にとっては、人が持つ”自由を求め続ける意識”を満たすことを考える上でも、地球上で採れる食物を選択しながら食べること”人の心にも身体にも良いことである”と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

・・・ただ、忘れてはならないのは、私達が意識において闇雲に自由を求め続けるようであれば、それはやがて自ら人の肉体にとって取り返しのつかない大きな変化を起こしてしまうということです。

 

 

また、闇雲な行為でなくとも、人の自由を求める行為は、何かしらの環境の変化や人の肉体の変化などを伴うものであり、「それらの変化に対処するため」または「過ぎることの無い適切な変化を創り上げるため」、人は様々な智恵を必要とするわけです。

 

 

その智恵に”科学””陰陽思想”などといったものが挙げられるのです。

 

 

 

 

真の身土不二の思想においては、先に書きました様に「自分の目に映る世界こそが自分の鏡」となります。

 

 

近代以前の移動手段に乏しかった日本人にとって、自分達が認識することのできた世界は、現代の私達から見れば非常に範囲の狭いものであったことでしょう。

 

 

当時の人達にとっては、その狭い範囲の世界こそが自分自身の鏡であり、自分の目に映る地域や村といった環境を維持、持続させることが自分自身を守るために何よりも大事なことでした。

 

 

ですが、グローバルな営みを続ける現代の私達、先進国の人間にとっては、地球という広範囲な世界こそが自分の鏡となっており、その地球という広い世界を維持、持続させることこそが、自分自身を守るためにも重要なこととなっているのです。

 

 

 

地球上で得ることのできる食物はすべからく、適切な選択や食べ方をすることで自分にとってより良い肉体と成り得てくれるわけですが、先に書きましたように、やみくもに自由な”食”を求め続けるようであれば、自分の肉体だけでなく、人としての肉体、そして地球という環境にまで取り返しのつかない大きな変化を起こしてしまう恐れがあるのです

 

 

 

ありふれた言葉ですが、自由には常に責任がついて回るということを努々忘れてはならないと私は思っています。

 

 

 

 

 

ただ、いったいどうすれば、自分にとっても人にとっても、そして社会環境にとっても「取り返しのつかない大きな変化」を起こさずに済むのでしょうか?

 

 

 

そのためのヒントが「世が自分の鏡であり、自分こそが世の鏡と成り得る」という真の身土不二の思想から導かれるのです。

 

 

 

つまり私達一人ひとりが自分の行いを省みながら、自分自身にとって適切な行為をとり続けることこそが、自分の肉体の健康だけでなく社会環境の維持、持続にもつながっていくのです。

 

 

適切な行為とは、自由を求めながらも同時に規律を求めるということであり、つまりは「バランスをとる」ということなのですが、自分にとって相応しい自由と規律のバランスを考え、その行為を実践することで、自分の秩序を保ちつつ、自由を求めることにより生じる変化に適切な対応をしながら生きていくことこそが”適切な行為”というものの真髄であるといえるでしょう。

 

 

 

そして一人ひとりのそういった行為、行動こそが、より良い社会環境を創造していくことにつながるのではないかと私は考えているのです。

 

 

 

 

「自分の生まれ育った場所で採れる食物を食べることが最も身体に良い」というマクロビオティックの身土不二の思想は、人の身体の秩序を保つためのみに囚われたやや極端な思想です。

 

 

人の体の秩序を保つことは大事なことではありますが、人は自分の体の秩序を保つためだけに生きているわけではないのです。

 

 

 

・・・とはいえ、マクロビオティックを実践して来られている方々が、自分の秩序、ひいては人の秩序、社会の秩序を保つための素晴らしい行動をとっているということは、批判するようなことなど何一つなく、むしろ尊敬に値すべきことだといえるでしょう。

 

 

そこは間違ってはいけません。

 

 

 

これまで書いてきたことからご理解いただけると思いますが、マクロビオティックは人や社会の秩序を保つために大いに役立つ素晴らしい思想であることは決して間違っておらず、またそれを実践しておられる方々は、人として非常に尊い背中を魅せ続けてくれているのですから

 

 

 

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玄米と聞くと「マクロビオティック」なるものを連想される方が多いようです。

 

 

マクロビオティックとは、今から約80年ほど前に桜沢如一という食文化研究家が確立した食生活思想を指しますが、その思想の源流は幕末期に活躍された福井県(福井藩)出身”食育の祖”と呼ばれる石塚左玄氏食養論にあります。

 

 

 

私の考えや思想も、同郷の先達である石塚左玄氏の創り上げた食養学ならびに氏の思想に強い影響を受けており、そのため「マクロビオティック」こと桜沢如一氏の思想にも、私の考えと相通ずるところが多く見受けられます。

 

 

 

「食本主義」「一物全体」「身土不二」「陰陽調和」

 

 

これらは石塚氏が編み出した思想であり、桜沢氏のマクロビオティックにも受け継がれている思想です。

 

 

 

ただ、私の食育の思想には、それらとはまた別の思想、そして最も尊ぶべき思想というものを設けています。

 

 

 

私は日本的宗教観、八百万の神々などといった神道的な思想を何よりも重視しており、つまり食物に対して貴賎や善悪の区別をつけないといった処に、自分の思想の根本を置いています。

 

 

 

私の思想においては、『ありとあらゆる存在が自分(達)の支えとなってくれており、特定の食料、存在が自分(達)の支えとなり得ていない要因は、ただ単に自分(達)が未だ至っていないだけである』・・・という考えが根本にあるのです。

 

 

それは言い換えるならば、『特定の食料が自分(達)にとっての毒であったり、毒になったりするのは、自分(達)が未だ未熟な存在なだけであり、つまりは自分(達)がまだまだ高みを目指すことが出来る存在であるという事実を、その特定の食料、存在こそが教えてくれている』・・・ということになります。

 

 

 

あらゆる存在が「様々なカタチ」で自分(達)を支え続けてくれているのです。

 

 

 

・・・・このような考えが私の根本思想としてあるわけです。

 

 

 

 

私はマクロビオティックの思想を決して否定はしませんし、非常に素晴らしい思想であることを認めていますが、ただ残念ながらマクロビオティックの思想を受け取る人々の中には「陰陽思想」を捉え違いしてしまっている方々が多いようです。

 

 

マクロビオティックという思想の下で食生活を営む方々の中には、陰陽思考を持って自らの調和を図ることが目的であったはずが、いつの間にやら善悪をもって自他を裁いてしまっている方々が多いように思えてなりません。

 

 

 

マクロビオティック実践者に限らず、多くの人達が「正義」「悪」という概念を創ることで「自分の安心」を見出そうとする。

 

 

 

この善悪の概念は、人間が見出した智恵の一つではあるかもしれませんが、しかし往々にして「自分正しい」と思い込むことで、他者や他の存在を否定したり、非難したりしてしまうような人達が多く見受けられるのです。

 

 

 

また、「自分正しい」と思い込んでいることを、他人に受け入れてもらえない際に、その自分の思い込みゆえにウツになってしまう、という人も多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

それ以外にも、その自分の思い込みを他人に非難されたり、否定されたときに、それを自分のせいとするのではなく、それまで自分が思い込んでいた「コト」のせいにして「自分の安心」というものを見出すことも多々あるようです。

 

 

 

ですが、そのような善悪の思考ばかりを持ってして、他者や他の存在をどれほど避けたところで、またはどれほど他者や他の存在を得たところで、それによって得た自分の安心など「うたかたの幻」のようなものでありましょう。

 

 

 

マクロビオティックの思想は素晴らしいものであり、それも一つの正しい思想ではありますが、その思想を実践することで、不幸を味わう人が現れてしまう以上、その思想は未だ未熟と言わざるを得ません。

 

 

 

そもそもマクロビオティックを実践することは「正しい自分を確立するための手段」ではなく、「自分がより高みを目指すための手段の一つ」でしかないのです。

 

 

 

 

「自分正しい」と考え、「悪」とみなした存在をどれほど排除し続けようが、

 

自分の存在の正義を証明するためにどれほど「自分正しい」と考える存在ばかりを得る行為を続けようが、

 

それはキリの無い行為であるばかりでなく、結局は自分にとって何の利も得ることの無い堂々巡りの行為でしかない場合がほとんどです。

 

 

 

 

私の食育思想においては「自分正しい」ではなく「自分正しい」であり、決して自分を貶めるようなことはありません。

 

 

そして同時に「他者正しい」

 

 

 

他のあらゆる存在も正しい、いかなる思想も正しい、つまりは「すべてが正しい」のです。

 

 

 

その上で「正しくも未熟な自分」という存在を、同じく「未熟ながらも正しいすべての存在」のお陰を持ってして、さらなる高みへと昇華させるために生きる(活きる)のです。

 

 

 

 

こういった思想の「表現」が欠けているマクロビオティックは、私に言わせれば「足りていない」というわけです。

 

 

 

そしてもう一つ、マクロビオティックの思想には「人がより良く活きるために足りていない思想」があると、私は考えています。

 

 

 

 

それは次回の「食育とマクロビオティック 其の二」に続けたいと思います。

 

 

  

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 私が1歳のときの輸血治療の際に、C型肝炎という病気に感染したことを、私は17歳のときに初めて知りました。

 

 当時はC型肝炎という病気は、まだまだ未知の部分が多い病気だったこともあり、「C型肝炎は不治の病」だとか、「人にうつるから生活に気をつけなさい」などという偏見のようなことがよく言われていたものです。

 

 思春期のときに、医者からそんなことを言われて大いに凹んだものですが、しかし急速な医学の進歩のおかげで今や、C型肝炎は不治の病では無くなりましたので非常に幸いであります。

 

 

 ただ、20代の終り頃、肝炎の症状がかなり悪化し、繊維化が始まったことがあり、肝臓自体の寿命が人よりも短いという可能性は拭えません。

 

 ですから、食べ物で少しでも改善できればと思い、体に良いといわれる食べ物を色々と調べ、勉強し、今も勉強を続けています。

 

 

 勉強の結果、肝臓の働きを助ける食べ物は自然界に色々とあることを知り、玄米という食物もその一つであることを、実際に身を持って知ることができました。

(正確には玄米食による「食べ方」の改善が、肝臓に良い影響を与えるわけですが・・・)

 

 

 そして、さらに深く勉強、実践していくことで、結局本当の意味では「体に良い食べ物」などという特別な存在は無いのではないか、という気付きを得るようになりました。

 

 

 つまり、どのような食べ物であろうが、人が食べられるものは全て自身が生きていくために大切な同志となり、同時にそれらの食べ物は自身にとっての「毒」にもなっている、ということに気付いたのです。

(食料である他生物を摂取し、自身に同化させる際には、必ず自身の破壊も生じているという事です)

 

 

 一般的には実際の生活でそこまで考える必要などはないでしょうが、いずれにしても、どのような食べ物であろうとも「食べ方次第」で薬にもなるし毒にもなる、ということは認識する必要があるでしょう。

  

 

 詰まるところ、チェーン店やコンビニに売っているような食品ばかり食べていたとしても、食べ方次第では立派に生きることは出来るでしょうし、玄米や健康食品などを食べ続けていたとしても、食べ方次第で病気になるときはなるものだと思うのです。

 

 

 

 ところで、こういった結論が導かれた際に、「そうであるなら、所詮は短い人生なのだから、好きなものを食べれば良いのではないか?それが幸せなのではないか?」という意見が必ず出てきます。

 

 

 その気持ちはよく分かりますが、しかしながら、どうしてもその様な意見には同調することが出来ない「私」がいます。

 

 

人はひとりで生きているわけでも、生きてきたわけでもありません。

 

 

 自分がしてきたことを、次の世代の人達はしっかりと見ています。

 

 私達が「自分が好きなものを好きなように食べている姿」を見せ続けていれば、後に生まれた次の世代の人達も同じ行為を何の疑問も持たずに真似をすることでしょう。

 

 自分勝手な行為の積み重ねがどういった結果を導くことになるのか、それは古今東西をみれば明らかなことであります。

 

 先鋭な若者であれば、そういった姿を軽蔑し批判することもあることでしょう。

 

 

 自分だけの欲望、快楽を満たすことで、どれほどの「他の存在の破壊」を必要とするか、それが最終的に「私達」の破壊を導くということを、先に生まれた人間としては、しっかりと認識する「責任」があると思うのです。

 

 今を生きるために大事な事、「私」だけではなく「私達」が目指すべき姿の一つとしては、「良い食べ方を考え、それを実践し、それを良い生き方に繋げ、次の世代にその姿を繋いでいくこと」、そういった姿があるのではないかと思うのです。

 

 

 

実際に「食」を真摯に捉え、謙虚に実践している方々の背中は、非常に品性に溢れ、何とも言えず格好の良い人に思えます。

 

戦前生まれの方々や、未来に向けて食を考える人達には、そういった方々が多いように思いますが、私もそういう背中を魅せることのできる人間になりたいと、常々思っています。

 

 

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